ほわいとぶらっく

何者にも染まってしまうほわいと、何者にも染まれないぶらっく

相手を思うやることの価値観とこれまでの後悔

 

はじめに

 

自分はこれまで後悔しないように人生を立ち回ってきたつもりではある。それはひとえに自分自身が最も納得できる答えを用意して実行することで後悔しないようにしてきたからに過ぎない。

 

しかし、最近面接などで色々な人から話を聞いているともっと自分と真正面から向き合わないといけないと感じさせられることが多い。これは自己分析とかではなく、もっと深く、これまでの考え方とかそういったものである。ずっと悩んできた。小学校の時から自分はどうあるべきなのかという問題に思い悩まされてきた。文字通り、これまで自問自答し続けてきた問いに対して、明確な答えを提示しなければならないと感じている。

 

 

 

自分はこれまで人に対して善意を向けてきたことがある。それは無意識であったし、それは自分に対して何かの見返りを求めない無償の善意だったんだけど、この無償の善意というものが一番自分の人生に大きな変化をもたらせているのではないかと思ってる。それもだいたい悪い意味で。

 

これまでの経験 

 

小学1年生の頃の話。小学1年生というのは、子どもにとっては幼稚園という閉鎖的な環境から突然小学校という見ず知らずの子が多く、環境の違いも激しいため落ち着きもなく、結局は幼稚園が同じだった子と仲良くする時期である。

 

小学生1年生の時、同じクラスにダウン症の男の子がいた。その子は生まれつき歩けずに車椅子に座っていた。記憶が定かではないが、その子は仲良くする子がいなかった。恐らく、幼稚園に通っていなかったのか、もしくは同じ幼稚園の子がいなかった。おまけに車椅子に乗っているせいで、他の子がとっつきにくい感じがあったのを覚えている。

 

自分はその姿を見ていて、これはダメだ。この子を助けたいと思って、先生から言い渡されていた車椅子で困る場面において手伝うことをみんな嫌がっていたその頼みごとを率先して実行していた。小学生の頭で考えることであるし、深い意図はないにしてもその子が実際に自分に対して、友達になりたいでも仲良くしようでもなく、その子にとってこれからの学校生活で自分と同じ立場になってほしいと思って、行動していた。だから、その子から「ありがとう」といわれることはあってもあまり仲良くなることはなかった。実際に自分がそうやって行動したことで彼にも自分と共通の友人ができたこともあり、小学2年生になってクラスが分かれたあとにはほとんど関わることすらなくなっていた。同じクラスにいたときはずっと一緒にいたのに関わらず。

 

それから4年後の小学5年生のときに彼の車椅子を押す機会があった。正直、小学1年生の時からほとんど話すこともなく、個人的には気まずかったのだけど、自分は当たり障りのないように「最近どう?」みたいなことを聞いた記憶がある。

彼は「おかげさまで友達がいっぱいできたよ」

と言っていた。これはすごい鮮明に記憶に残っている。当時の自分にはちょっと意味が分からなかったんだけど、今になって考えてみるとあれは感謝の意味合いで言ったのかなとか思ってみたり。

 

とにもかくにも彼とはそれ以来、小学校を卒業した後は完全に疎遠になってしまった。小学生の時に親から聞かされていたのは「あの子は寿命が長くない」ということだった。あまり「じゅみょう」という言葉を理解していなかったけど、それでもあまり良くないことだと、小学1年生ながら察していたのでこのような行動を取ったのかもしれない。でも、何故それなら自分が彼と友人となろうとしなかったのか、それも別に褒められるためとかではなく、ただその現状から助けるために行動したのかについては記憶の闇に飲まれてしまっている。もしかしたら自分は考えるよりも行動してしまう子どもだったのかもしれない。

 

 

 

小学5年生の時に転校してきた女の子がいた。あまり関わりがなかったのだけど、自分の学校では、小学6年生になった時に何かの放課後活動に参加しなければならず、その子は自分と同じ陸上・バスケットボール活動で一緒になった。また、同時に同じクラスメイトにもなっていた。

 

その子は見た目普通の女の子であったんだけど、何かしらの病気(記憶が定かじゃない)を抱えていて、緊張してしまうとゲップが出る症状があった。実際、クラスの生徒にその病気について説明するために、その子の父親が終礼のときに来たこともあったから恐らく結構重たい病気だったんだと思う。しかし、ある意味で無垢な小学生にとってそれは差別する要素となりえてしまい、転校生でクラスに馴染めていなかったこともあり、目に見えてその子はいじめられていた。

 

自分はその子とは正直、放課後活動以外で関わりはなかったし、特別仲良くなろうとも考えたことはなかったんだけど、見てみぬ振りが出来なかった。要するに特に意図せず、無意識に庇ってしまっていた。いじめを受けている子を庇うということは、そのいじめている集団に対して反抗するという意味でもあり、その後の展開は火を見るより明らかだった。

 

その子に向いていた差別の行動、いじめの対象が自分に移り変わったのだ。

ただしそれは一回だけの行動で終わってしまったんだけど。

 

自分は小学生の時に空手を習っていたし、バスケットボールもやっており、小学生にしては大きすぎる170cm近くの身長を有していた。その甲斐あって一度グラウンドでいじめ集団に囲まれた時にリーダー格にある子のマウントを取り、顔面をひたすら殴り続けたことで、いじめ集団と一緒に自分も担任教師から怒られるという形でこの事柄の決着がついたのだった。

 

その後日談、同じ放課後活動でこれまで関わりのなかったその子が

「また卒業してもどこかで一緒にバスケットしようね」

と笑いながら言ってくれたことを覚えている。

自分にとってその子の笑顔を見たときが女の子を意識した始めての経験だった。

しかし、結局その約束が果たされることはなかったんだけど。

 

 

 

次は告白の話。

中学生の時に好きだった子から告白されたことがある。これは人生において自分が経験した告白された3回中で1番最初の告白だった。中学生の時の自分はそういうのには疎かったはずなんだけど、好きな子くらいは自分の中で持っていたし、その子は何より可愛かったし、とても優しかったのを覚えている。

 

結果から伝えると断ってしまった。

好きな子から告白されて断るとは何事だ!と今の自分なら断った直後の自分に対してハラキリを求めたいところではあるんだけど、当時の自分は断ってしまった。

 

「自分と付き合うよりも他の子と付き合ったほうが○○は幸せになれると思う」

 

というのが断った理由だった。しかも、自分の記憶が正しければ、冗談抜きの真顔でこれを言ったらしい。厨二病も甚だしいレベルである。

意味分からん当時の俺死んでくれ。

 

 

そして、高校生の時に人生において2回目となる告白をされた話。それは好きだった子ではなかった、というか関わりが薄すぎて意識すらしていなかった子だった。でも彼女がフランス人形といってしまうと逆に怒られそうだけど、自分にとってあまりにも不釣合いな可愛い子だったのは覚えてる。性格についてはあまりよく知らなかったけど、告白してくるあたり行動派だったのだと思う。

その当時、自分は高校の部活でクソみたいな環境と強制労働者並みの練習をしていたせいもあり、精神的にぼろぼろだった。

そのせいもあってか、

「お前に構ってる暇もないし、遊んでやることもできないだろうから他の男を探した方がお前は幸せになれる」

といった記憶がある。

過去の自分ホンマふざけんな。

 

 

この4つの経験から言いたいのは自分が相手に対して本当に相手が一番幸せになるであろう行動を取っているということで自分のことを全く顧みてなかった。

これが無償の善意というものなのかどうかは分からないんだけど。でも、もしこれらの行いの中で自分が欲を出していればと思うことがたびたびある。

 

 

もし、車椅子の子と友達になっていれば、その子の最期まで友達となれたかもしれない。もし、あの女の子と関わりを持っていれば、また一緒に笑いながらバスケットボールをできたかもしれない。もし、好きな子からの告白を受けていれば今でも仲良く結婚について話せたかもしれない。もし、あの可愛い子からの告白を受けていれば、ギクシャクしながらも仲良くなっていけたかもしれない。

 

もし、自分の意思を尊重できていたら今ある現状がマシになってたかもしれない。もし、自分がずるがしこかったなら大きな見返りを得ることができたのかもしれない。もし、自分がもっと欲を持っていたらもっと良い結末を迎えていたかもしれない。

 

自分は後悔してこなかった。これまでの自分自身が決めてきた、やってきた行いを。でも、それは詭弁であって、本心でなかったと最近になってようやく分かる。後悔しなかったのではなく、後悔するということを拒否していただけだった。生きている限り、失敗することは必ずあるし、失敗しなければ人は成長しない。失敗したからといって後悔する必要はないと自分は思ってきた。実行してきた。反省して次に生かせばいいと思ってた。でもそれは大きな間違いで、自分がやりたかったこと、そうやって自分自身がやってきたことに対して誇りを持って、それが成熟しなかった時に悔しがって、泣き喚いて、成功しなかったことを嘆くべきだった。そうすれば、二度と同じ過ちを繰り返そうとも思わないし、今後それを引きずって生きていくこともない。自分が生きていく中で、自分自身が持っていたポリシーである後悔しないことというのは大きな過ちであったと最近気づいてしまったんだ。図らずも多くの人と話す中で、自分自身を正直に人に曝け出すことで自覚し、認めてしまった。

 

これまで自分は自分が起こした行動に対して、後悔することはなかった。でも、これからはこれまでのこと、そしてこれから起こることを後悔していこうと思う。それがもし生産的でないにしろ自分にとっては、とても大切な何かであると感じるから。

 

 

 

 あとがき

 

あとがきって書いてるけど実際には本編。

最近、「Re:ゼロから始める異世界生活」ってアニメを見た。ストーリーも面白いんだけど、何より登場人物に好きな子が多いアニメ。どれくらい好きかといえば、アニメ1話から5話まで一気に見た後にWebで無料公開されてる小説版を全て一気に読みきる程度には好き。

 

 

f:id:WhiteBlack:20160530195335j:plain

 

なかでもルックスとか全てひっくるめて、この2人が一番好き。

メイドで双子とかもうズルイの一言。ご奉仕してもらいたいし、してあげたい。

この2人でどっちがより好きかというのは難しいんだけど、ラムのムッとした表情がこの上なく好きなので現状ラムリードといったところ(友人などに自分がオタクであることをひた隠しにしてきたのに関わらず、ラムをiPhoneの待ち受けにするあたり相当なものである)

 

f:id:WhiteBlack:20160530195832j:plain

 

iPhone開くと可愛い子が見つめ返してくるとか最強か???

 

エミリア様については個人的に好きというよりも憧れというのが強い。これはSAOのシノンであったりに近い感じだと思う。性格的に好きというべきか。

理由としては最初に自分が言っていた無償の善意というのを自分のためだといって振舞っているというところ。「○○するのは全部私のためなんだから」という言葉が自分が無償で善意をするわけでなく、利益を求めているということで行動を起こしていると自身を納得させる言い訳を自分の中で完結させている。自分にはそういったこと、意識して無償の善意を振りまくことはできないし、そういったことができるようになりたいと思うからこその憧れであると思う。自分も少しでも他の人に意識して無償の善意をすることができればと心から思う。

 

 

f:id:WhiteBlack:20160530201154j:plain

 

某氏が好きなシーンを抜粋。親を除いて女の子に膝枕された経験は中学校以来ないので膝枕してくれる女の子がほしい。しかしながら、エミリア様と手袋のマッチングを考えた某氏ホンマやばいと思う、いやすっごい分かるけど。(いろんな意味で)

 

 

f:id:WhiteBlack:20160530201212j:plain

 

別にエミリア様が嫌いとかではなく、むしろ好きなんだけど憧れの対象をそういう目で見たくないという個人的な考え方があるのでなんとなく後ろめたい気持ちがある。

 

 

さいごに

 

Re:ゼロから始める異世界生活はすごく面白いので見よう!いぇーい!

f:id:WhiteBlack:20160530202959j:plain

 

 

PS.ガルパン見ました。ガルパンはいいぞ。

微妙に怯えてる西住殿が好き

 

f:id:WhiteBlack:20160530220433j:plain